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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第112回
「筑紫」の「色好み」(61 段)

 

「染川」と「たはれ島」

「61 段」は、前段「60 段」を承けて配列されたものであろう。承けたといっても、物語の内容が連続しているわけではない。「60 段」が、主人公の「昔、男」が「宇佐の使」として当地行く途中でのことであったのに対して、「61 段」は、「昔、男」が「筑紫」まで行ったという設定である。同じ人物ということではあるまい。いわば、物語の舞台を「人の国」(地方)とする共通の意識からの配列である。「宇佐」と「筑紫」という連想もあろう。次に原文と現代語訳を掲げる。

昔、男、筑紫まで行きたりけるに、

「これは、色好むといふ好き者」

と、簾の内なる人の言ひけるを聞きて、

「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ」

女、返し、

「名にし負はばあだにぞあるべきたはれ島波の濡れ衣着ると言ふなり」

(昔、男が、筑紫まで行ったところ、

「この方は、色好みだと言われる風流人よ」

と、簾の中にいる人が言ったのを聞いて、(男が詠んだ)

「私はここに来るまでに染川を渡りましたが、その染川を渡る人が、どうして色に染まる―色好みになるということがなかろうか、その川の名のとおり、皆色に染まる―色好みになるのではありませんか、あなたも同じことです」

女は、歌を返して、

「たしかに、「染川」という言葉が持っているのであれば、その名のとおり、色に染まる―色好みということもあるでしょう、しかし、「たはれ島」だって、波を被って「濡れ衣を着る」ということになるというではありませんか、「染河」だって同じことです」

「筑紫」は、今では九州の北部地域を指すが、古代では、九州の総称であった。つまり、本章段の「男」は、朝廷から何らかの命を受けて「筑紫」までやって来たということであろう。ここで詠まれた「染川」は、太宰府付近から、玄界灘へ流れ出る「御笠川」の上流の支流で、川としてはごく小さなものである。「藍染川」の別称もあり、その言葉の面白さから歌枕として定着したのであろう。

この「染川」を渡るということは、地理的に言えば、太宰府からさらに奥へ進むという印象がある。「染川」を渡るというのであるから、女の歌に、現在の熊本県に位置する「たはれ島」が詠み込まれることの地理的矛盾はない。

「たはれ島」は、「風流島」とも書き、現在の熊本県宇土市の緑川河口の沖合にある岩礁である。「染川」同様、言葉の面白さから、歌枕として用いられたのである。受領層に属する歌人たちなら、その歌枕と実際の地名は、知識としてはあったに違いない。

 

「61 段」と『拾遺集』『後撰集』

ところで、当章段の「男」が詠んだ歌は、『拾遺和歌集』(成立は寛弘 2 年(1005)6 月 19日より同 4 年 1 月 28 日までの間が有力)「巻 19」「雑恋」に、「題知らず」「在原業平」の詠として載せられている。この物語(61 段)から採録したものと思われる。物語の「男」を色好むといふ好き者」と言うことから、『拾遺集』の編者が、この「男」を業平と考えたというのはわかりやすい。

一方、物語に登場する女の「簾の内なる人」であるが、この表現からすると、女は、「筑紫」地方に赴任していた国司の妻という見立てでよかろうと思われる。朝廷から派遣された使者は、国司の住居を宿とするからである。そういう設定も、60 段の女が「ある国の祇承の官人の妻」であったことと共通している。

この女が詠った歌であるが、『後撰和歌集』「巻 19」「羇旅」に載せる「詠み人知らず」ものとよく似ている。簡略な詞書もあり、次に引く。

たはれ島を見て 詠み人知らず

名にし負はばあだにぞ思ふたはれ島波の濡れ衣幾夜着つらむ

この両者の関係について、『伊勢物語』の作者が、勅撰集として成立していた『後撰和歌集』ら採録し改作した、という見方は採らない。ただし、61 段の女の歌の元歌となったのは、『後撰和歌集』に載せられているところの和歌である、ということは動かない。

これは、この物語の作者は、『後撰集』に収載される前の段階において、この歌を改作利用できた人物ということなのである。その前の段階とは、むろん、『古今和歌集』撰進時のことである。『伊勢物語』の作者とは、そういうことが可能であった人物と考えなければならず、紀貫之作者説は、まず動かない。

 

 

2025.5.18 河地修

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