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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



『古今和歌集』を考える

『古今和歌集』のメッセージ(九)

 

二大部立―「四季」と「恋」

『古今和歌集』の「部立」で、「四季(春夏秋冬)」(巻1~6)と「恋」(巻11~15)とが、最も重視されていることは動かしようがない。なかでも「恋」は、『萬葉集』のいわゆる三大部立の一つ「相聞」を受け継ぐもので、さらに言えば、「仮名序」「真名序」が九世紀の和歌の担い手として「いろごのみ」を筆頭に挙げたことでも、『古今和歌集』に占める位置は大きいものがあることはあらためて指摘するまでもない。

「いろごのみ」とは、語義そのものに限定すれば、良くも悪くも、異性を好む、ということだが、『萬葉集』「巻第一」の巻頭、雄略天皇御製は、天皇の「いろごのみ」を高らかに宣言するものであった。『古今和歌集』が『萬葉集』に「続く」ものという観点から言うならば、「いろごのみ」の精神は、当然継承されねばならぬものであった。「いろごのみ」すなわち恋は、そのまま婚姻に繋がるものでもあって、稲作農耕を根底に据える社会では、子孫の拡大、ひいては家や国の繁栄に展開することであった。

したがって、『萬葉集』に続く「勅撰和歌集」の『古今和歌集』において、部立として「恋」が重視されるのは当然のことと言えるのである。しかし、その「恋」の位置が、「巻第十一~巻第十五」であることに比して、春夏秋冬の「四季」が、「巻第一~巻第六」に配されていることの意味は大きいであろう。

『萬葉集』に続くという認識を示す『古今和歌集』ではあるが、「部立」に関しては『萬葉集』とは大きな違いを示している。『萬葉集』の場合は、「雑歌」はともかくとして、筆頭の部立には「相聞」が挙げられる。しかし、『古今和歌集』は、その筆頭に、「四季」が挙げられているのである。

見て明らかなように、「恋」は『古今和歌集』後半の「巻第十一」~「巻第十五」の五巻が充てられているので、むろん、重視されていることは言うまでもない。しかし、「巻第一」~「巻第六」までの六巻を占める「四季」とは、その重みが異なるのではないか。「恋」は、「相聞」から名称を変えたとはいえ、『萬葉集』の三大部立を引き継ぐものであって、言わば、必然の部立設定でもあった。しかし、「春夏秋冬」を表す「四季」は、『萬葉集』に部立としては立てられてはおらず、つまり、『古今和歌集』誕生において、初めて設置された部立なのであった。

「部立」として全二十巻に「部類」され『古今和歌集』となったと記述する「真名序」、あるいは、その主要部立を、歌語を列挙しながら解説する「仮名序」からもわかるように、「部立」が『古今和歌集』の本質を示していると言えるのであれば、「部立」として新しく「四季」が配されたことの意味は大きい。編者、もしくは醍醐天皇の意識に、この「四季」を最大限尊重するという姿勢があるのは当然のことであって、その意識が、『古今和歌集』二十巻全体の最初への配置ということになったのである。

とすれば、『古今和歌集』の「四季」の部立とは何か、という問いが発せられねばなるまい。


 

2021.9.16 河地修

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