『古今和歌集』を考える
『古今和歌集』のメッセージ(十)
「四季」は移ろい、循環する
この稿では、二大部立として「四季」と「恋」という捉え方をしている。部立としては、「春」「夏」「秋」「冬」ではないかという見方もあるに違いない。たしかに、「部類」という観点からすれば、類別は「春」「夏」「秋」「冬」になっていることは事実であり、そういう捉え方は間違いではない。しかし、私は、あえて「春夏秋冬」を一つの部立として捉えたいのである。それは、「四季」は移ろい、循環するものであるからだ。
「四季」は、日本にだけ見られるものではないが、やはり、日本人にとって、ある種特別な感情を有するものがあるのではないか。たとえば、『萬葉集』には、「部立」としては独立する「四季」(春・夏・秋・冬)はないものの、「巻第八」と「巻第十」には、それぞれ「春雑歌」「春相聞」「夏雑歌」「夏相聞」「秋雑歌」「秋相聞」「冬雑歌」「冬相聞」というように、「雑歌」と「相聞」に「春夏秋冬」を組み合わせて配している。ここでは、まだ独立する「四季」の部立には至らぬものの、「四季」への意識が明確に見て取れるのである。
そして、「四季」の順序は、むろん、春-夏-秋-冬の何物でもないことを確認しておきたい。「四季」の開始は、あくまでも「春」であって、それは古代万葉人の時代から、今日の令和の時代の日本人にとって、けっして揺らぐものではない。
言うまでもなく、『古今和歌集』もまた「春」から開始されている。そして、その第一番歌は、次の和歌である。
ふるとしにはるたちけるひ、よめる
(旧年のうちに立春となった日に、詠んだ)
ありはらのもとかた(在原元方)
としのうちに はるはきにけり ひととせを こぞとやいはむ ことしとやいはむ
(まだ年が明けないうちに、春が来たのであった、この一年を去年と言おうか、それとも今年と言おうか)
正岡子規が強烈に痛罵したこと(「再び歌よみに与ふる書」)で知られる一首だが、『古今和歌集』がこの歌を巻頭に置いた理由は明らかである。それが名歌であるとか、名歌でないとか、そういった議論は個々の評価の次元の問題であって、ここでは触れない。要は、「四季」の部立の先頭はこの歌が担うに十分の理由があった、ということを理解しなければならないのである。
そのことは、詞書からも明白である。「ふるとしにはるたちけるひ、」とは、いわゆる「年内立春」の日であって、まだ12月のうちに「立春」を迎えた日のことである。この「年内立春」は、後世、俳句の季語としての扱いは「冬」のようであるが、和歌としては、『古今和歌集』に倣って「春」の端緒とすることが多い。すなわち、「春」の端緒として最もふさわしい和歌と言うべきであって、この歌を「春上」の巻頭に置くことの理由は明白ではあるまいか。
さらに言えば、当たり前のことを言うが、四季は循環する。循環する以上、春夏秋冬と巡り、それが「冬」で終わるわけではないのである。その次は「春」が訪れなくてはならない。「ふるとし」とは旧年、すなわち、ここでは12月であって、「ふるとしにはるたちけるひ、」とは、まさに、閏年ゆえのことではあるが、「冬」と「春」とが重なっていることを詠ったのであった。当該歌は、「冬」と「春」との連続性を、強く主張する歌と言っていいだろう。
「四季」は移ろうが、移ろうだけではなく「循環」するのである。「四季」は、人の世に「時」の推移を示すものだが、しかし、それは、川の流れのように、ただひたすら流れてゆくだけではない。「冬」の後、「春」は、また再び巡り巡って来る、というところに、歓びというものがあるのではないか。それは、否応なく、「無常」である「人の世」を生きてゆかざるを得ぬ人々の再生への祈りと歓びと言ってもいいだろう。